「最古」の歴史


 この寺をみなさん方は子安地蔵の寺と呼んでいます。子安地蔵というのは、子供を恵み、育てていただくという、お地蔵さまの功徳からこの名が出たのであります。

 そのわけはこうなのであります。

 それはずーっと昔のことでございました。さあ、何年ぐらい前になりましょう。凡そ一千年ぐらい前になります。そのころ神功皇后(じんぐうこうごう)という方が、おいでになりました。非常に男まさりの方でありましたが、ある年、新羅(しらぎ)という国に兵をつれていくさのために出かけられることになったのです。

 皇后は元気のよい方でありましたが、そのときは多少お身体の状態が思わしくなかったようであります。
 と申しますのは、どうやらご懐妊になっておられたようで、いよいよ御出発のときがまいりましたが、お心重のために摂津の和田野原の地でしばらくお身体を休ませられたのであります。

 そして御不快なお身体の快復を待たれたのでありますが、然しどうしたことが、あまりはかばしかしくなく、皇后さまはもちろん、その部下も心配申しあげておりました。

 神功皇后さまは、平素から心豊かに、み仏にすがることのお心がけの強い方でありましたものですから、そのときに不思議なことがおこりました。

 皇后さまの前に、ひとりの尊い聖者(ひじり)があらわれて、「皇后さま、御心配なさることはありましたが、新羅の国でいくさをしてかえってこられましたら、必ずお身体をおなおし申し上げます。」と言って、消えるが如く去っていきました。「これは不思議なことだ、誰がこの方のあとを追ってその行き先をさがしなさい。」神功皇后はそう命ぜられました。早速家来がそのあとを追いましたが、先の和田野原の西北のところで、この聖者の姿を見失いました。

 然しそのとき不思議なことがおこりました。その和田野原一帯に、なにかしら香り高いお香の匂いがして、これは何事がある、と思いながら、あたりを見まわしますと、一体の霊像があらわれたのであります。「まあ、このお方は。」と思いながら、心から合掌して、神功皇后の御健康の回復と、その御出産をおねがい申しました。

 そしていそいでかけもどってまいりまして、皇后さまにその由を申しあげましたところ、皇后はまるでみちがえるように、健康を回復され、新羅に向かわれて、あちらでのいくさに勝って、無事におかえりになりました。そのかえられてからめでたく御安産されたのが、後の応神天皇であると、つたえられています。

 このことから、神功皇后の新羅御出発の地であり、御出産の霊験を得られたところであることから、ここに一寺を建立して、先の霊像を安置したのが金福寺(こんぷくじ)という、今皆さま御参詣の寺であります。

 この霊像を安置申し上げておりますので、昔から安産をねがう、安産地蔵とも、子安地蔵ともいわれ、近隣からの参詣も多く、その霊験もあらたかであります。

 そして千年余もつづきまして、この寺はますます繁栄したのでありますが、すぐる第二次世界大戦の際に、残念なことに戦災をうけて全焼してしまいました。その後有縁、無縁の皆さま方の御協力で、再建いたしまして、今日この寺の建立当時の皇后さまのお心をそのままにあらたかなる奉仕をつづけております。

 このようないわれの金福寺であり、その建立の年代もあまり古くて明らかでありませんが、長い間民衆の帰依をうけて、今日までまいりました。開山と申しましてお寺を建てられたのは神功皇后であります。これも全国で珍しい寺であります。そうでありますから、我が国の寺院の創建年代では、まことに古い寺であるといえます。

 宗旨は念仏の元祖法然上人が開かれた浄土宗であります。よくご参詣くださいました。

(金福のしおりより)